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映画監督のジャファール・パナヒは獄に戻されてはならない。 映画監督のジャファール・パナヒに対し、テヘランの(イラン・)イスラム共和国法廷が重罰を科す判決をくだしたことに、大きな憤りと懸念を覚える。 判決内容は以下の通りである――禁錮6年(刑期短縮なし)に加え、今後20年にわたって映画制作および脚本執筆を禁止、メディアのインタビューに応じることを禁止、出国禁止、また外国の文化機関との接触を禁止。 もう1人の映画作家、モハマド・ラスロフも、同様に禁錮6年を言い渡された。イランでは、投獄され出口のない苦しみを味わわされ、ただ朽ちていく…
…… 「ウィキリークスのミラーサイトのリスト」のページの削除についての「議論」のページ(「ノート」)を見れば、削除に対する賛否両論を確認することができる。削除反対(ページを残すことに賛成)の人たちは、ウィキリークスがより安定したホスティングを見つけるまでは残すべきだとか、ただの事項の羅列(リスト)以上の価値を有すると主張している。一方削除賛成(ページを残すことに反対)の人たちは、「ウィキペディアはリンク集のミラーまたは保管庫ではない」とはっきり述べたウィキペディア(注:原文タイポあり)のポリシーを根拠とする。で、結局のところ…
そのようなタイトルを選んだことについて、彼はこう説明する。「私はあらゆる暴力に反対です。暴力や、軍事的アプローチはダメだということが何十年も前にはっきりしているのに、それは絶対に変化しない。誰も内実をしっかり検討しようとしない。ただ何も見ようとせずに続けているだけです。」 「パレスチナ人もイスラエル人も、物事の進む道を変化させることに失敗しています。ただ単に同じアプローチをとり続けているだけですが、それは憎悪と流血を悪化させ、エスカレートさせ、溝を広げるだけです。生活を破壊することは簡単です。しかし、それを建設することは非…
国際水域(公海)で船を乗っ取って乗客を殺すことは、もちろん、重大な犯罪です。ロンドンのガーディアンの編集部は「昨日海上で6隻の船に乗り込み、少なくとも10人の乗客を殺し、それよりもっと多くを負傷させたのが、武装したソマリアの海賊であったとしたら、今日はNATOのタスクフォースがソマリアの海岸に向かっていることだろう」と書いていましたが、それはまったく妥当なことです。この犯罪は何ら新しいものではないということも念頭においておくべきでしょう。何十年にも渡ってイスラエルはキプロスからレバノンの間の国際水域において船を乗っ取り、乗客を殺…
親愛なる友人の皆様、エヴィン刑務所の暗く狭い独房から、心からのご挨拶をお送りします。 今日、家族・親族の者たちと会いました折、第63回カンヌ国際映画の初日に皆様がたがしてくださったことを聞きました。残念ながら、わたしは現地に行くことができません。 ここから私は、皆様がたの堂々たる思いやりのお気持ちに感謝の意を表し、カンヌ国際映画祭運営の皆様、とりわけにジル・ジャコブ氏に敬意を表します。 また、フランスのベルナール・クシュネル外務大臣、フレデリック・ミッテラン文化大臣にも、わたしの身柄解放のためにいろいろとご尽力いただき、…
【ポルトープランス、2010年3月30日(IPS)】シテ・ソレイユのスラム街の真向かいにある工業地帯、シテ・ミリテールで、女の人たちが集まっている。その中心には、米国産の米の袋が一袋。月曜日の朝、米はキリスト教系の援助団体「ワールド・ビジョン」によって配給所で配られていた。 目撃者によると、この配給の作業中、国連平和維持軍が群集に向かって催涙ガスを発射した。 女の人たちに米を分けながら、ローレット・エルリスさんは「あの人たちはああいうやり方をしてくるってことは、ハイチ人にはわかってますから。まるで動物扱いです」と言う。「彼らが食料…
「本当にもう、こんなナンセンスが続いているとは。みな団結して、こういうことは終わりにしなければなりません。こういうことで、ボグサイドという名前に悪いイメージがつくんです」と彼は述べた。 「襲撃の犯人はわかっていますよね。夜中に、自分の息子が帰ってきたときに、火炎瓶を投げてきたあとならそれとわかるでしょう、(燃料の)においがしているはずだから」 「そういうことをする人たちは明らかにされなければならないし、引き渡されなければならない。単純なことじゃないですか」とラムゼーは述べた。
ミッチェルは1968年に、公民権協会で政治的な活動を開始した。彼はまた、全国Hブロック委員会(訳注:原文 the National H-Blocks Committeeのママ。一般的にはthe National H-Block/Armagh Commiteeという)の主導的メンバーのひとりであった。(なお、同委員会は1970年代末から80年代初頭にかけての刑務所についての抗議行動を中心とするキャンペーンを組織していた。) 彼は、シン・フェインの現在の和平戦略の策定において中心的な役割を果たし、また「和平へのシナリオ」(1989年)と「アイルランドにおける恒久平和に向けて」(1992年)という2件の和平に関す…