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「みんなの翻訳」は情報通信研究機構多言語翻訳研究室と東京大学図書館情報学研究室による共同プロジェクトであり、三省堂と国立情報学研究所連想情報学研究開発センターが開発に協力しています。
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謝辞
「Five Minutes of Heaven」は一晩でできたわけではない。2006年に始まった、3年をかけたものだ。
当時、制作のオーウェン・キャラハンと、脚本のガイ・ヒバートが連絡してきて、紛争と、暴力から非暴力への旅程を見つめる番組に参加してもらえないだろうかという話があった。
彼らが私に連絡してきたのは、私が、いかにして自分がひとりの人間を撃ったか、そしてその出来事が他の人々に――私自身にも――その後何年にもわたってどのように影響を与えてきたかについて語ることをいやがらない、数少ない元囚人たちの1人だったからだろうと思う。
こうして、3年に渡るプロセスが始まった。このプロセスで、制作者は私とジョー(筆者が射殺したカトリックの男性の弟)との間で作業をすることになった。
私がリーアム(・ニーソン)と初めて会ったのは、撮影が行なわれていたときのある日のことだった。
まさかリーアムと対面することになるとは思っていなかったのだが、ちょうど私がセットから出て行こうかと思っていたとき、 リーアムが誰かに「アラステアさんってどの方ですか」と尋ねたのだ。
その次には、少し話をしようということで、彼は私のほうに歩いてきた。
「どうも、アラステアさん、お会いできてうれしいです」とリーアムは始め、それから北アイルランドで成長するということについての話で盛り上がった。
リーアムはバリミナでの子供時代と10代のころのことを語った。私の出身地であるラーガンのあたりでボクシングをしていたこともあるという。
リーアムは映画スターで、金のある有名人と一緒に仕事をするのが当たり前という人だが、それでも、私が和解という分野でやっている仕事について大きな関心を示した。
私たちはイスラエルとパレスチナの間の情勢についての話までしていた。
「まったくなんであんなひどいことになっているのだか!」とリーアムは言った。私は彼に、「平和を求める戦闘員 (Combatants for Peace)」のことを話した。このグループはイスラエル軍兵士だった人たちとパレスチナの戦士だった人たちのグループで、協力して暴力を停めようとしている。
「そういう人たちのことを、何でもっと耳にしないのだろう?」とリーアムは問うた。
……
映画(Five Minutes of Heaven)が始まったのは、私がロンドン出身の国教会のpriestであるルース・スコットと協力して、書籍「子供に銃を与える (Give a Boy a Gun)」 の作業に取り掛かったときとほぼ同時だった。この書籍は最近出版されたばかりだ。
この本は、私の体験談を中心としているけれども、本質的には、北アイルランドについての本ではない。
そうではなくて、この本は、世界のどこであれ紛争というものに巻き込まれた若い人たちの体験と共通するものを多く持っている。
自分の体験談を語ることについての私の目的は、ここでの紛争についてより理解を深めてもらおうということではない。そうではなく、愛情にあふれた家族の中で育ったごく普通の子供が、暴力の人間になっていくのは何が原因なのか、そしてそれから、その人間が流血に背を向けるのに役立ったものは何なのか、ということに光を当てることだ。
私の個人的な経験は極端なものかもしれない。しかし、私の体験を形作った反応と、人間であれば誰でも有しているような日常生活の一部である反応との間には、共通のルーツがある。
多くの人々は、暴力の人間というものは、家庭が崩壊していたり機能不全だったりするから生まれるものだと考えている。確かにそういう人たちもいる。しかしそうとだけ考えていては全体像は何も見えない。特に紛争が、個人というより共同体に根ざしたものである場所ではそうである。
この本で、私はできる限り正直に、自分がなぜ殺しを行なったのか、そして刑務所での長い年月(筆者は12年の懲役を科された)から出所後の社会復帰、そして最終的に、国境を超えて、政治(的動機で発生した)紛争の被害者/サバイバーと暴力の加害者と一緒に取り組むようになったことまでの長くてつらい旅程を探った。
良い方向に、また悪い方向に私の進む道を決定した要素は複雑なもので、私はそれについてはっきりさせる努力をした。
結局、故郷が私の出発点だった。もし私が、北アイルランドではなく英国のどこかほかの場所に生まれていたら、私の体験は、この世に生まれ、生きて、家族や自分の属した社会のつながりを超えた部分ではその存在も知られず死んでいく何百万という人たちの体験と違わないものになっていただろう。
しかし、私は北アイルランドのラーガンに生まれたのだ。
当時の多くの人々と同じように、私が10代のときはこのコミュニティは暴力に取り囲まれていた。銃撃や爆弾が、この地域では毎日起きているといっても過言ではなかった。
17歳の時に、私はひとりの人を殺した。終身刑を受けられる年齢ではなく、私は無期刑でロングケッシュとHブロックで12年、服役した。
その間に、私は、暴力的紛争から離れる遅々としたつらい歩みを始めた。これには、自分の行為とその結果を見返すということと、私の進んだ道を形作った要素の複雑さを探るということが含まれていた。つまり、例えば同じコミュニティにいたほかの人たちが選ばなかったのに、なぜ自分は暴力という道を選んだのか。何が原因で、トラウマタイズされた若者のひとりは武器を手にとるようになり、別のひとりは暴力の行使から離れてゆくのか。
また、例えば、社会として私たちはいかにして紛争の遺産に取り組んでいき、二度と暴力が引き起こされることのないようにするのか、といったより広範な問題も。
私の体験はまだ完全に解き開かれてはいない。それを読み、また今週末放映されるFive Minutes in Heavenを見ていただければ、自分自身が体験したことだけではなく、自分と似た状況にあって距離的には遠く離れている他者の体験にも、光を当てるものだと思っていただけるのではないかと思う。
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